神社概要

御由緒

当社の創建は古く、貞観17年(875)清和天皇の御勅定により東北守護の大神として京都石清水八幡宮の御神霊を勧請し鎮座したと云われております。 社伝に依れば、貞観17年己未歳9月人皇56代清和天皇の御勅定により、、京都石清水八幡宮を下野仮夷國大内山郷磯之坂上旭日ケ丘に東北守護の大神として勧請、鎮座した。時に小嶋物部連邦詞朝臣大神主を拝し神主1名禰宜5名と社家11、下社家23、神戸55戸、神領550町歩を賜る、とされています。
又一方で下野薬師寺の守り神(仏法の守護)として奈良時代に九州宇佐神宮より御神霊を勧請して鎮座したとも云われております。下野薬師寺は日本に仏教が伝来されて間もないころ、7世紀後半天武天皇の命により創建された寺院で、その名が地名の薬師寺となって今日に継承されています。下野薬師寺は東大寺(奈良県)、筑紫観世音寺(福岡県)と共に、奈良時代に戒壇が置かれたことや、弓削道鏡が配流された寺としても有名です。現在は薬師寺の法灯を受け継ぐ安国寺(足利尊氏改名)や別院龍興寺があり、又元の寺域は国指定史跡公園であり発掘を始め回廊の復元・ガイダンスの設置・公園化の工事が進められています。 当社も其の文化域に鎮座し、特に八幡信仰を知らしめた弓削道鏡禅士の眠る塚(八幡大神の御託宣により失脚し下野薬師寺へ配流)が神社参道突き当たり(現龍興寺内)にあります。近隣に下野国府跡、国分寺など往時を偲ぶ遺跡伝説が数多く残る処であります。当八幡宮は、そういった八幡信仰を語る上でも貴重なお社であります。
時に天喜4年(1056)源頼義公奥賊追討の勅を拝し進軍の途次、当社に参宮祈願をなし進発したが、源頼義公の後続軍と賊軍とが社郷内にて合戦。御社殿・御神門・御饌殿・御酒殿等全てが灰燼に帰した。しかし、源頼義公を始め源義家公奥賊安部一族平定の帰路、当社に奉賛の誠を捧げ、特に鉄弓、鏑矢を寄進(社宝)。此れ以来別称「矢旗岡八幡宮」とも称していたようである。 当社の社名であるが、地名からか「旭日ケ岡八幡宮」とも又源頼義公・源義家公の参宮祈願等があり源氏の武神として「矢旗岡八幡宮」・又「正八幡宮」(一説には清瀧八幡宮)とも称していたようで、いずれも文献や言い伝へに残るが、現在は「薬師寺八幡宮」と称しています。一方下野薬師寺が衰退してゆく中で当八幡宮もその勢いを弱めていったようである。又結城秀康(領主)の國替えを期に次第に衰微していった。というのも続いて領主となった伊奈備前守が神領を上地し直接石高をもって奉献するというかたちをとったからである。その後、佐竹右京太夫公が領主となるに及び、其の援助によって神社の整備が進み、寛文2年(1662)には本殿が再建され、翌年には拝殿・玉垣が修理された。現在の社殿はその時のものであり、「栃木県指定有形文化財」であります。神社では文化財である御社殿の大改修を、平成11年より3ケ年掛けて行い、平成14年春、無事に完成・再建時の姿を取り戻しました。江戸初期という時代性や黒を基調にした風格ある御社殿は、匠の技が随所に散見する貴重な建造物であります。
明治6年には、郷中10余の神社を合祀し今に至っております。 本殿裏の築山は、古墳らしき形状が見え、何らかの祭祀が行われていた観があります。流鏑馬参道(200m)には桜が植えられ花の時期には華やかであります。昭和初期まで行われていた流鏑馬、競馬も現在は休止中でありますが、流鏑馬参道を過ぎると大鳥居があり、大鳥居より御社殿まで50数基の春日灯籠が建ち並ぶ様は壮観であります。境内に御神木が二本あり、一本は源頼義公お手植えと伝へる大欅(推定樹齢600年町指定文化財)。もう一本は大銀杏で、お乳(こぶ)が多数下がる姿から 垂乳根の銀杏と呼ばれています。 又薬師寺付近一帯は古墳も多く、下野薬師寺など多数の旧跡が残る南河内町は、現在急速に発展を遂げつつあり、人口増加も進んでおります。 現在も氏子や崇敬者の方々の信仰を集め、厄除け、家内安全、交通安全を始め六三除けの御利益を求めて多くの方が訪れております。

鳥居越し拝殿
大欅大欅
大銀杏大銀杏

社名

旭ケ丘八幡・矢旗岡八幡・正八幡・総社八幡・清瀧八幡とも呼ばれていたが、現在は薬師寺郷鎮守八幡宮と呼びならわしています。

御祭神

息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)
誉田別命(ほんだわけのみこと)
玉依姫命(たまよりひめのみこと)

御利益と信仰

災難消除、勝ち運守護、家内安全、交通安全、厄除け、病気平癒他
神紋・神使・社紋
菊花・左三ツ巴・扇に日の丸(佐竹紋)・社家紋(橘)
神使:白鳩(拝殿に彫刻)・鷹(本殿に彫刻)